以前、琉大付属小で講話をした後、子供たちの感想を頂きました。
その中で、一つ面白い意見がありましので、ご紹介します。
「海外の言葉を勉強しなくても、海外の人と会話が出来る機械。これは人間の脳を働かせることを減らします。
考える事が少なくなっていって、考える事がなくなってしまうと、人としておかしくなってしまいます。
だからこういう機械は作らない方がいいと思います。」
大変鋭い指摘です。
「考える」という事は、脳にとってストレスで面倒な作業なのだそうです。
しかし、考えるからこそ、人間は他の動物とは違うのであり、考えるからこそ文明が発達しています。
ストレスを回避し、過ごしやすい日常を得られる道具は、大変便利です。
ほとんどすべての商品は、これを目的に作られているといえるかもしれません。
例えば、ボールペンは、墨や筆を用意して紙に文字をしたためるという作業を簡易化しています。
例えば、缶ジュースは、フルーツを絞って飲み物を作る工程を簡易化してくれています。
例えば、旅行は、自分で行き先を調べて、チケットや宿泊先を手配する作業を、やはり簡易化しています。
商品やサービスは、何かのストレスを簡単にしてくれているので、僕らも大変便利に利用させてもらっています。
しかし同時に、それが当たり前化すると、ボールペンがどのような働きをもたらしているのかを忘れてしまい、ボールペンを使うことを当然のようにふるまいます。
英語を勉強する事とは少し違う例えになりましたが、英語を勉強する事は脳に新しい働きをさせようとする試みといえます。
これは大変なストレスで、周知のとおり多くの日本人が苦手とするところでもあります。
もし、翻訳機が流通し、いろいろな人が学習しなくても海外の方と交流出来るようになると、ストレスから解放され、伝えたいことが伝えられるようになり、機会損失を免れるようになります。
もっと積極的に海外とのつながりを持とうとし、経済が活性化する事でしょう。
とてもいい事のようですが、小学6年生の指摘は、その先を見ているように感じます。
脳を働かせる事をやめてしまっていいのか?便利であることは正しい事なのか?
そう問いかけている気がします。
「翻訳機が出来た!英語勉強しなくてよくなったぜ!ばんざーい!」
と喜ぶのは、危険じゃないですか?という問いでもあります。
これに対する僕の回答は、学習しなくてもスムーズな会話が出来る機械を手に入れたら、今度はどのような事を伝えようかを考えるようになったり、会話する相手が増えるので、考える事も増える期待も出来るのではないか、という事です。
ただ、そのように振舞う人は限られる事でしょう。
翻訳機を上手く使い可能性を広げる人と、翻訳機に使われてしまい思考停止する人に分けられるでしょう。
翻訳機もボールペンもただの道具なので、それをどう使うかに委ねられると思います。
そのために、翻訳機が手に入ったらどのようにこれを使うか、考え続ける事が重要なのかもしれません。