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超IT社会になった時の心配事について

子供達にプログラミングを教える事は、近い将来に訪れる超IT社会での対応力を身につける事に繋がると考えています。

ですので、超IT社会がもたらす影響についても日々調べたり考えたりしているので、少しまとめてみます。

 

ちなみに超IT社会というのは、僕の造語で定義はありません。

あえていうなら、こちらが参考になると思います。

第1部 第1章 「超スマート社会」の到来

 

と言ってもこちらの記事は長いので、簡単にいうと

「AIとかロボットが普通になる時代」

という感じです。

 

ITは情報技術と訳されます。

情報を取り扱う技術というわけです。

 

最初にこの言葉が出てきた時、情報とはニュースや文献やビジネス上の書類などをさしている程度だったと記憶しています。

ファックスや手紙やパンフレットなどもこれらに該当し、簡単に効率よく取り扱える技術は称賛を持って迎え入れられました。

 

そして情報の定義はどんどん広がり、今や人々のつながりや場所、脈拍でさえも取り扱えるようになりました。

というよりも、全ての事象を情報に置き換えようという動きが盛んになりました。

 

有形のものの多くが情報化され無形になり、無形のものは可視化されるようになりました。

 

例えば、音楽。

 

僕が高校生の頃、音楽を聞く為にはCDを購入しなければなりませんでした。

インターネットはなかったのです。

 

CDを買うには3,000円必要です。

高校生に3,000円は大金でしたので、洋楽に取り憑かれていた僕らは輸入盤のCDを探して歩いていました。

輸入盤のCDは1,980円でした。

 

好きなアーティストの情報は、雑誌やレコードショップの方々から得ていて、まだ誰も知らない情報は大変貴重なものでした。

もし誰も知らないアーティスの情報を知る事ができれば、友人らに一目置かれます。

情報は、権威であり必要不可欠だったのです。

 

好きなアーティストの新譜情報を手に入れると、買う事を宣言し、他の友人らには違うCDを買うように勧めました。

そして手に入れたら互いに共有しあって、カセットテープに写して楽しみました。

 

カセットテープには、DJさながらにミックスされた曲を詰め込み、免許取り立ての運転とともにどこまでも駆け抜けるのが青春でした。

友人の選曲や、曲がかかる順番に感心したり嫉妬したり罵ったりしながら、僕らは音楽と共に高校時代の多くの時間を過ごしました。

 

あれから20年経ちますが、当時の友人と共にいるときに、ふとラジオなどからあの頃の曲がかかると、

僕らは一気に20年前に戻ります。

 

お酒を飲みながら、気分はあの頃に戻って、いつまでも語り合う事ができます。

そうやって仲間との価値観を共有し、繋がりを確認しあいながら、人生を豊かにしているとさえ思う事があります。

 

しかし、あれほど音楽に熱をあげていた僕は、以前ほど音楽を聞かなくなりました。

好きなアーティストのCDも、よっぽどでなければ進んで買わなくなりました。

家にはCDプレイヤーさえ充実していません。

 

大学生や高校生にCDを買ったことはあるかを尋ねると、もうそれほど多くはありません。

存在さえ知らない学生もいます。

僕も買わなくなったので、よく理解できます。

 

CDはもう古いのです。

と同時に、仲間と過ごした時間や過ごし方も過去のものとなってしまい、以前と同じように楽しむことは出来ません。

 

音楽のあり方はすっかり変わったというわけです。

先日、その事を象徴するようなニュースがありました。

 

楽器メーカーギブソン破綻、関係先への影響は

 

ギブソンといえば有名な楽器メーカーで、ギブソンのギターを持つことは、バンドマンの憧れでした。

なんともいえないこの悲しさ・・・

 

同じ事が、映画や漫画や他の産業でも起こっていると思います。

 

じゃぁ、CDのままがいいのか、紙のままがいいのか、という議論をしたい訳ではありません。

デジタルになったことで、便利になったことは間違い無いですし、僕自身、かなりデジタルを活用しています。

 

僕の懸念は、デジタル化によって形がなくなる事ではなく、価値観が「使い捨て」になっている事です。

 

音楽はデジタルの力を借りれば、聞きたいときに大抵聞けるようになりました。

漫画や本も電子書籍となり、いつでもどこでも購入でき、持ち運べるようになりました。

映像も同じです。

 

CDを手に入れるために足を使って情報を求め、お金を貯めてやっとの思いで手に入れたそれは、宝物でした。

ハズレだった事もありますが、苦労が報われるように意地でも聴き込んだものです。

 

今は、そうする必要がありません。効率化されいてすごい事なのだけど何か寂しい。

僕に関してですが、一曲一曲を聴きこむということは、以前ほどしなくなってしまいました。

 

いつでも聴けてしまうから、という安心感がそうさせています。

 

作り手も、現代に合わせた制作になっていると聴きます。

マーケティングを行い、楽曲よりも、アーティストのキャラクターや世界観。

ライブやイベントでのパフォーマンスが充実し、音楽を聴くというよりアーティストを体感するスタイルになった気がします。

 

アーティストを体感することで、同じ価値観の仲間たちと出会い、自分を解放できるコミュニティで充足感を味わう事ができるのだろうと思います。

それはそれでとても素晴らしい事です。

音楽が以前よりも手軽になった分、そうしたコミュニティをたくさん作り、より多くの人たちを幸福にしています。

 

悲しいかな理解してもやはり、価値観は使い捨てられているのでは無いかと感じてしまいます。

その理由の一つが、僕が年をとったからなのです。

年をとって、過去の価値観にこだわり、新しい風に戸惑い、風邪を引いて寝込んでしまいそうな気分だからです。

 

しかし、もし、年をとった事が理由ではなく、本当に価値観が使い捨てにされていたとしたら。

 

音楽はいつでも聴ける、映画も見たいときに見る事ができる、本もそう。

欲しいものは、ネットで購入した方が安いし、いつでも買えます。

自分の健康状態もスマートウォッチに任せておけばよく、ニュースはあらましだけをamazon echoに聴けばいい。

 

触れる情報は格段に増え、有名人の不祥事は、隣の人の不祥事より詳しくなりました。知りたいと望んでもいないのに!

高級ブランドも高級料理も、体験した事はないけど、情報のおかげで知ったような気分になりました。

そのため、以前よりも興味を失ってしまいました。

 

これは考え過ぎてしまうと、大事にも興味を持たなくなってしまうかもしれません。

例えば、死。

 

誰々が死んでしまいました、という情報もカンタンに入手できるようになりました。

今日は誰々の命日ですという事も、

 

車は軽自動車でいいし、服はGUでいい。居酒屋は食べ飲み放題で結構。

ケチなんだじゃなくて、それが手軽だから。

 

広告を押し付けられ、何かを我慢して欲しいものを手に入れていた少し前の時代に比べて、とても効率のいい時代になりました。

多くの情報に触れる事で、事象を多面的に理解できるようになり、物事の本質を捉えやすくなった結果、雑音が消え、本当に価値のあるもの以外はどうでもいいと感じられるようになったのかもしれません。

 

もしかすると、価値観が使い捨てになっているのではなく、ほとんど多くのことは使い捨ててもいいくらいに、インスタントに付き合える事なのだと理解したのかもしれません。

 

だとしても、では、僕らは今後、どうやって価値観を育めばいいのでしょうか。

取るに足らない適当な娯楽を、そうと知りつつゴッコで付き合っていきながら、価値観を育めばいいのでしょうか。

そこには、虚無がある気がして怖いのです。

 

もうすでにそうなっているような気がして怖いのです。

それでもいいじゃないか!と割り切れないのです。

 

所有と消費の時代から、消耗の時代となって、価値観さえも擦り切れていく感じがします。

この流れを作った本流の一つであるビジネスさえも、使い捨てられていて、舵を失った船に乗っているかのようです。

 

ただ一つ、このような時代に向き合って、シラフでいられる指針があります。

 

それは、誰かと認め合うことです。

CDを買っていた頃もそうなんですけど、結局のところ苦労してCDを買い友人と価値観を共有する行為は、互いに認め合う事が最終目的でした。

 

たとえ、全ての事象が使い捨てられたとしても、それらを使って互いに認め合いさえすれば、大事なものを感じる心は育まれて、価値観は養われていくと感じています。

多くの情報に触れられる人類史上稀に見るこの面白い時代に、情報を使いまくって、テクノロジーを使いまくって、誰かを認めたり誰かに認められたりする事は、過去に例がありません。

 

ただぼーっと情報を眺めるのではなく、意図的に取り扱おうとすれば、これまでに類のない素晴らしい時代を作れるかもしれません。

子供達にはその権利があると感じます。

 

便利に使い捨てるべきなのか、苦労して宝物にするべきなのかは、論点ではないのかもしれません。

どちらだとしても、それを手に入れる事は手段であって、目的に合わせて取り扱えば、いいのではないかというのが、今のところの僕の結論です。

 

そのように子供達にも伝えていきたいと思います。