勉強って本当に必要なのでしょうか。
僕は、勉強が好きです。
新しい知識を仕入れるときに、ニヤニヤしています。
実は、新しい知識を仕入れる事を勉強と呼ぶのには違和感があって、勉強というのは別の何かだと感じてしまいます。
僕が新しい知識を仕入れる事を楽しんでいるのは、ある目的があるからです。
それは、自分が仕入れた知識を僕の中でブレンドして、誰かに話す事。
その誰かが僕の話を楽しんでくれれば、僕は幸せで、僕の話を楽しんでくれなければ、より貪欲に知識を仕入れるようになります。
僕にとって新しい知識とは、話す相手が知らない事で僕がグッときた話であればなんでもいいので、
宇宙だったり
哲学だったり
テクノロジーだったり
映画だったり
ゾンビだったり
寄生虫だったり
教育だったり
宗教だったり
数学だったり
漫画だったり
音楽だったり
ジャンルも多岐に渡ります。
僕のそうした振る舞いはエンターテイメントになっている事も自覚しています。
感覚的には、出会った人のための個人メディアという感じです。
一方、勉強はエンターテイメントではないとされています。
勉強について、文科省は新指導要領でこのように掲げています。
1.教育基本法改正等で 明確になった 教育の理念を踏まえ、 「生きる力」を育成
2.知識・技能の習得と 思考力・判断力・表現力等 の育成のバランスを重視、 授業時数を増加
3.道徳教育や体育などの 充実により、豊かな心や 健やかな体を育成
※余談ですが、授業時間は以下のように増えるそうですよ。
○国語・社会・算数・理科・体育の授業 時数を10%程度増加
○週当たりのコマ数を低学年で週2コマ、 中・高学年で週1コマ増加
1に出てくる教育基本法ではこのように記載されています。
教育の目的
教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。
教育の目標
教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
- 幅広い知識と教養を身につけ、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
- 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、 自主及び自立の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
- 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んじるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
- 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
- 伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
すごいです。僕は、日本国という視点からしっかりと考えられた理念だなぁと思いました。
知識の勉強について、教育基本法の目的や目標には、国算社理の記載はありません。
代わりに「幅広い知識」「教養」「真理」と書かれています。
指導要領に目を通すと、それらを身につけるためのツールとして、国算社理を用いると読み取る事ができました。
僕の解釈では、
「日本国としては、日本人として理想的な人格になるために、国算社理を使って勉強してもらいますよ」
という事になります。
これらの教科が一定の実績を積んできたのでしょう。識字率の向上とか。
これはこれで素晴らしいのですが、トップダウンな感じがあります。いや、国としては正しいのですよ。
正しいんですけど、「勉強」や「教育」がつまらなくなる原因はトップダウンのせいかもしれません。
「幅広い知識」「教養」「真理」を身に付けるために、必ずしも国算社理じゃなくてもいいじゃない!って声を無視し兼ねません。
飛躍した考え方をすると、「こうあるべき」が「やれ」になって、現場では指示に従う事が指導に置き換わっているのではないかと懸念します。
自分の頭で考えた指導から、「こうすればOK」という指導が、勉強を押し付けている結果になっていると言ったら言い過ぎでしょうか。
オトナが「こうすればOK教育」を土台に考えている気がしないでもないのです。
教育基本法には、「社会の形成者として必要な資質を備えたもの」を育てようと書かれています。
でも、社会に出たら国算社理は使わないって声も昔からあります。
僕は大いに使うと思っているのですが、論点はそこというより、「国算社理は使わないと言われている事」を放置している事にある気がします。
ここに思考停止が見られるのではないかと。強力っぽい法で定められているので、従うしかないよね、という思考停止。
オトナの思考停止が、コドモに目標や目的を持たせる事が出来るのでしょうか。
僕の行なっている、「相手を喜ばせる事を目的として知識を仕入れる」は、社会の形成者として間違ってはいないと感じます。
形成の仕方は色々あると思うので、そのうちの一つにはなりうるかと。(それをいうとなんでもありなんですが)
僕の学びに対する哲学から
「勉強って本当に必要なの?」
に答えるとすると
「相手を喜ばせるとか、相手からお金をもらうとか、あの人と一緒に何かをしたいとか、歴史に名を残したいとか、何かしらの目的を持ち、それに必要な事を勉強というなら必要」
ってなります。
僕の脳みそだと社会って大きな概念よりも、身近な相手くらいの規模になってしまいますが。
ちなみに、日本の義務教育は1915年頃から広がっているそうなので、100年の歴史があります。
あれ、意外と短い気が・・・
まだまだ変えられるかも?!
もしかすると、「勉強って本当に必要なの?」はコドモからオトナまで、みんなで考えたほうがいいのかもしれません。